Japanese | English

[home] > [archive] > [第3回公開研究会]

2007.10.23

第3回公開研究会報告

■日 時:2007年10月20日(土)14:00〜18:00
■場 所:東京大学本郷キャンパス工学部新二号館9階93b
     (情報学環プレゼンテーションルーム)
■参加者:約70名
■テーマ:「ジャーナリズムとメディアリテラシーの対話」
   プレゼンテータ(1):林香里(東京大学)
   プレゼンテータ(2):下村健一(市民メディアアドバイザー)
   総合司会・コメンテータ:境真理子(江戸川大学;メル・プラッツ運営メンバー)

  ※敬称略

■概要:
関係者のおこないがよいのか(?)、これまで好天に恵まれてきたメル・プラッツの公開研究会。第3回となった今回も、10月下旬とは思えない暖かな陽気のなか開催されました。陽ざしに刺激されたのか、暖かさを越えて熱ささえ感じさせた当日の会場。その模様を報告します。

最初に林香里さん(東京大学大学院情報学環)から、「現代社会における『職業としてのジャーナリスト』の検討」と題して問題提起がおこなわれました。

<林さんの報告要旨>  日本における「ジャーナリスト」の定義は、「ジャーナリスト道」とも呼べる精神論に根ざしたウェットなものと、「記者クラブへの加入者」というドライなものとに両極分化してきました。これは、ジャーナリストに求められる専門的知識や技能についての議論や大学におけるジャーナリスト教育が重視されてこなかったこと、大学のジャーナリスト教育と現場のジャーナリズムとの間に壁が存在してきたことなどと無関係ではありません。

ところが近年、大学におけるジャーナリスト教育が活発になってきました。その背景には、工業社会から知識社会への変貌 にともなう知的専門職への新たなニーズの発生や、社内教育のコストを削減したいメディア企業と、学生獲得のための目玉カリキュラムを設けたい大学との利害の一致といった事情があります。

ジャーナリスト教育へのニーズが高まる一方で、社会における機能分化の進行にともない、ジャーナリストと呼ばれる人びとの間でも仕事内容が多様化しています。さらに、大手メディアと中小プロダクション間の待遇格差、東京と地方の格差、常勤とフリーランスの格差などのひろがりが現場に疎外感を生んでいるという事情が加わり、プロ意識の低下を招きかねない状況です。インターネットなどの技術が生み出した「市民記者」という曖昧な存在も、自らの専門性についての問いをジャーナリストに突きつけています。

こうしたジャーナリストの専門性の揺らぎは、従来の「メインストリームとしてのマスメディア対オルターナティブとしての市民メディア」という二極モデルの終焉をもたらしつつあります。ドイツの『Bild』紙に寄稿する「市民ジャーナリスト」など、従来の「マスメディア対市民」という枠組みでは捉えられない活動を展開する人びとが増えてきたことは、マスメディアにとっても、これまで「市民サイド」に位置づけられてきたメディア・リテラシーをめぐる活動にとっても脅威となりうるでしょう。

このような状況の中で、日本のマスメディアは、その「孤高の寡占状態」が社会の変化との間に齟齬をきたしていることを自覚し、将来どのような方向に自らを開いていくのかを真剣に考えることが急務です。それには、「市民との協働はマスメディア・システムを強化する」という視点が必要ですし、市民との協働を推進していくためにも、社会の変動を踏まえたジャーナリストの新たな専門性を確立することが求められます。

引き続きおこなわれた下村健一さん(市民メディアアドバイザー)の報告は、ジャーナリズムとメディア・リテラシーとの関係を「伝える」/「支える」/「学ぶ」/「演じる」という4つのステップの循環関係としてとらえるものでした。

<下村さんの報告要旨>  まずは、メディア・リテラシーを「伝える」というステップについて。『ニュース23』で視聴者に対しメディア・リテラシーの大切さについて直接伝えようとしたときの経験から考えると、「メディアが発信する情報を鵜呑みにしてはいけない」と送り手自身がストレートに言うことに対しては、受け手の側に強い抵抗があるようです。

メディア・リテラシーを「支える」活動としては、研究者やメディア・リテラシー教育の現場に「生きた教材」を提供する試みを続けてきました。それを通じて、「番組を制作する現場の視点」と「番組を解釈する研究者の視点」がまったくかみ合わないということに気づいたり、「番組制作者の言い分」に納得していなかった子どもたちが、自ら番組を制作してみることで自分たちも「制作者の論理」にとらわれていたことに気づく現場に立ち会うといった経験をしたりしてきました。このように、ジャーナリズムの現場にいる人間がメディア・リテラシー教育に関わりをもつことには、「教室の理論」で「現場の現実」を鍛え、「現場の現実」で「教室の理論」を鍛えるという二重の意義があると思います。

こうした実践から、送り手側が「学ぶ」ことも少なくありません。子どもたちが制作する番組にはプロの視点から見て違和感をもつことも多々ありますが、そういった違和感から普段自分が見過ごしていることに気づくことも多いのです。こうして、メディア・リテラシーの実践を通じて送り手と受け手の双方が何かを学び合うことは、社会全体のメディア・リテラシーの底上げに通ずるはずです。また、目の肥えた視聴者が増えることは、番組の質の向上にもつながるでしょう。

ここで最初の、「送り手自身がメディア・リテラシーの重要性を受け手に『伝える』ことの困難」という問題に戻りますと、送り手がメディア・リテラシーについて直接語るのではなく、自らがメディア・リテラシー的実践を「演ずる」ことによって間接的に伝えるというやり方はあると思います。現に、ある殺人事件について「報道者の視点」と「それとは別の視点」を対比させることで視聴者に間接的にメディア・リテラシーの重要性を伝えようと試みた番組に対しては、まったく批判が来ませんでした。

<ディスカッション1>  続いて、林さんと下村さんにメル・プラッツ運営メンバーの境真理子さん、水島久光さんが加わってのディスカッションがおこなわれました。議論の方向は一様ではありませんでしたが、ひとつの焦点は、ジャーナリズムとアカデミズムをどう架橋していくかという問題でした。この問題を軸にして4人の発言をまとめてみましょう。

下村さんの紹介してくださった事例は、ジャーナリストの経験が、その経験に対する反省(reflection)作業を経てどのようにジャーナリズムに関する専門知になっていくかを見せてくれるものです。その一方で、ジャーナリストは目の前の現場を見ることはできても、自分が見ているものが全体の中でどのような場所に位置するのかを判断する材料を持ち合わせません。その意味で、ジャーナリストは現場を語り、アカデミシャンは全体を語るという分業が成り立ち得るでしょう。

ただ、それを分業と呼ぶためには、ジャーナリズムとアカデミズムとの交流が確保されていることが必要です。ジャーナリストには自らの経験知に反省作業を加えることで専門知へと組み替えていく作業が、アカデミシャンには実務に即した理論を携えて現場と交流することで、専門知を活性化していくことが期待されます。

<ディスカッション2>  休憩をはさみ、全参加者が林さんグループと下村さんグループに分かれてディスカッションをおこないました。終了後、それぞれのグループの司会を務めた水島さんと境さんがまとめてくださったところによると・・・・・・

林さんグループでは、ジャーナリズム教育はどういうものであるべきなのか、また、その結果をメディア側はどのように受け止めることができるだろうか、ジャーナリズムを権力に対する批判作用と考えると、さまざまな社会的コミュニケーション能力が必要となってくるのではないだろうか、といった議論がおこなわれました。

もう一方の下村さんグループでは、教育現場にプロのメディア関係者が入っていったときに何が起こるのか、またどんな点に注意しなければならないか、ジャーナリズム教育は教員養成教育と似通っているところがあるのではないか、映像表現のプロと教育のプロ(教師)とのコラボレーションがうまくいくと、メディア・リテラシーの授業はうまくいく、といった話題が展開されました。

最後に、林さんはジャーナリズムが現状に即した新たな専門知を磨くことと同時に、自らを市民に開き、市民との協働を試みることの大切さをあらためて強調しました。これをうけた下村さんの「協働に先立ち、共振をおそれるな」というメッセージはとても印象的でした。教育の現場にメディア・リテラシーの実践を持ち込むことで、学校の人間も揺さぶられるし、現場で活動しているジャーナリストも揺さぶられる。同様にジャーナリズム教育を受ける学生も、教える大学の教員も揺さぶられるべきだというのです。

「生徒もぶるぶる、市民メディアもぶるぶる、先生もぶるぶる、そうやって共振しだすと、協働も生まれてくると思う」という下村さんの言葉に、私たちも強くぶるぶるしながら帰途についたのでした。 (報告者:見城武秀/メル・プラッツ運営メンバー)

(c)2007 MELL platz all rights reserved.